自然豊かな里山を背に、田園風景を一望する本院は、紀州根来山(現在の和歌山県 根来寺)より玄宥上人が携えてきた錐鑽不動の秘仏を本尊として、応永二四年(1417)、宥戒上人の手によってこの地に開山されたと伝えられます。当山は山号を三學山(さんがくざん)と称し、寺号を岩崎寺とし、三學山岩崎寺不動院と称します。山号の由来である三學山の「三學」とは、悪を断ち善を修る「戒学」、精神を統一させる「定学」、心理を悟る「慧学」を指し、仏道の基本的な考え方を体現しています。開山以来将軍家との縁が深く、足利家から境外山林の寄進を受け、慶安元年(1648)には徳川家から朱印高十七石を賜り諸役を免除されました。かつては十三ヶ寺の末寺を有し、その一つであった密蔵院の別当に愛宕山頂にある愛宕神社があり、当山と深い関わりがありました。その後、明治政府から神仏分離令が出されたことで十三ヶ寺は廃寺となり、現在はその趾を留めるのみとなっています。
三學山不動院は、茨城県笠間市にある真言宗豊山派のお寺です。当院は三方を山に囲まれ、眼下には田園風景が広がる自然豊かで静かな環境に位置しています。私は令和元年より第三十八世住職を継承いたしました。浅学非才の身ではありますが、皆様のお役に立てるよう力を尽くして参りたいと思います。時代は変われども人がご先祖様を敬い、亡き人を慕う心には変わりはありません。皆様の大切な心を守っていくためのお手伝いができれば幸いです。
不動院 住職 片岡卓治
開祖以来幾度かの災禍に見舞われ、元文四年(1741)の大火で本堂が焼失し翌年に再建。以後二百数十年にかけこの地を見守って来ましたが平成七年(1995)現在の入母屋造の本堂が落慶いたしました。
「人々を常に観ていて救いの声(音)があれば瞬く間に救済する。」という意味からこの名が付けられました。出家前の釈迦を思い起こさせる姿をしております。平成二一年(2009)、歴代住職墓及び住職夫人墓の改修を機に、お寺を訪れる人たちの苦難除去や厄除け、開運などを願い建立いたしました。納骨設備も整えられており、永代供養塔としての役割も果たしております。
当院裏山を流れる天神沢に建っていた祠を起源とし、その後院内旧本堂南側に建立されました。昭和七年(1932)浄財を募り新築されたとの記録が残っています。その後平成五年の新本堂建設の際に老朽化のため取り壊され、現在の地に六角堂として再建されました。堂内に安置される虚空蔵菩薩像、菅原道真像、不動明王像は地区の信仰を受け、毎年七月に堂前にて五穀豊穣を願う「御田植祭」を行っております。
昭和九年(1934)に地元名士の寄進を受け建立されました。その後、戦中の梵鐘供出(国の方針で鐘を提供した)を受け、長らく堂のみの状態でしたが、本堂の落慶時に再び寄進を受け、鐘楼が戻り現在の姿となりました。現存する物では院内で最も古い建造物です。
真言宗の開祖である引法大師が全国を行脚した際の面影を今に伝えるものです。高野山や四国八十八ヶ所の霊場を開くなど、全ての人々の幸せのため、民衆を救うために尽力した姿を窺い知ることができます。
本院の御本尊である不動明王は、五大明王の中央に配され、真言宗の根本尊である大日如来が姿を変えたお姿だと伝えられています。誤った道に進もうとする人々を憤怒の形相を持って、正しい仏教の道へと導き救済する役目を担っております。本堂に安置されている不動明王像は、室町時代末期のものとされ、像底両足部に「天正十二年甲申極月」の墨書銘があります。およそ口元は牙上下出(がじょうげしゅつ)といって右の牙を上に出し、左の牙を下に出しています。背に守護神である迦楼羅(かるら)炎を背に、大日如来の智慧の鋭さを表した剣と、煩悩を縛り悪心を改心させる羂索(けんさく)という縄を両手に持っています。両脇に矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制吒迦童子(せいたかどうじ)を従え、矜羯羅童子は明王の慈悲(情けの心や哀れみ)・制吒迦童子は忿怒(怒りや憤り)を表していると言われております。